生 死

失うことは、辛く、悲しい。

 

死は何かを奪う?

死は何を奪うのか。

 

死は命の限界。

限界だとしたら、それは見えないもの。

であれば、生きている間は死なない。

 

死後は認知できないから、人は死なない。

 

でも、人は死ぬ。

死を迎えた人は、害は受けないのか?

何も失わないのか?

つきまとう違和感。

 

やっぱり、死は何か奪う。

奪うから、死は剥奪の害という。

持っていけるものは何一つない。

 

じゃあ、何を奪うのか。

自由?お金?大切な仲間?

違う。多分そういう類のものとは違う。

関心や利害のあるなしに関わらず、無差別に奪う。

 

可能性は消える。

 

可能性は無限。

生きていれば選択肢はたくさんある。

実現させたいのは一部にしても、

大部分は意識してない可能性にしても、

可能性があるから生きる。

 

可能性って何だろう?

 

暖かい家庭を築くとか海外に住むとか

理想の働き方をするとか長生きするとかって素敵な可能性。

反対に、

犯罪を犯したいとか、事故に遭いたいとかって素敵じゃない可能性もある。

 

関心を持たない可能性の剥奪は害にはおよばない。

 

何が害なんだろうね。

 

多分重要なのは一部の可能性。

成功の見込みのある方向の示唆。

可能性が実現してほしいと切に願う欲。

でも、叶えるために、大抵時間が必要。

瞬間ではなく、継続的に。

そしてこれらは未来にあるもの。

現在を越えた先にあるもの。

 

失うものとは、つまり。

 

持っているが、未だ持っていないもの。

 

未来

 

殺人や、自殺はなぜいけないのか。

未来を奪うから。

 

 

生きるとは、

未来があること。

 

未来があるから、生きていける。

生きていけるから、未来がある。

小さなハードルを越えろ!

朝早く起きて、元気のいい日はランニングしている。

 

自分の心地よいペースで走るのが好きだ。

決まったルートもない。

走る距離も時間もバラバラ。

今日も8時ごろ、近所の歩道とろとろ走ってた。

 

 

しばらく走っていると、背後から自転車に乗ったおじいちゃんがとろとろ走ってる私をとろとろ追い抜いたんですね。

 

とはいえ、お互いのとろとろの速度は異なるので、おじいちゃんの背中は小さくなる一方だったのですが、

とはいえ、

「あれ、このおじいちゃんのスピードなら、ちょっとがんばれば追いかけられるんじゃね?もうちょい頑張ってみる?」

と自分を煽る自分がいて、

ちょっと無理してスピードあげたんですね。

そしたら、案の定「体力尽きるまでは…」と、夢中で追いかけすぎてしまい、いつもより長く走ってしまったんですよ。

 

で、走りながらふと思ったの、

もし、その自転車のスピードが遅刻寸前の出勤時の社会人ばりだったら、そもそも追いついたろ!とか張り付いたろ!とか思わんだろうなー、と。

それはさすがにやる気失せるもん。

 

ギリ届くかも?っていう

近くてイメージしやすい目標ぶらさげたほうが

結局やるんだなぁー、と。

 

とはいえ、

目標はめちゃめちゃ大きくてもいいと思うよ。

人を守れる安全な場を作りたいとか、世界中の人を感動させるビックなパフォーマーになりたいとか。

 

でも、いつまでも「〜になりたい」とか、「〜だったらなぁ」とか言ってても変わらん。

 

行動する時は身近に小さな目標を置き続けて、

その小さな成功体験を積み重ねる方が

結果、遠く感じてた大きな願いも叶っていくんだろうね。

 

俺もちょっとハードル高いよってブログも

こうしてなんだかんだ書いてたら

なんかうまくいったりするんかな?

 

 

やらんとね、わからんよね。

最悪を楽しむ

人間生きていたら、最悪なこともあるじゃないですか。

想像しうるドンダケ幸せそうな人だって、そう。

ずっと都合のいい事実ばかりの人生なわけじゃない。

 

例えば、

 

道端でうんこふんじゃったとか、

 

会社で上司に怒られたとか、

 

道端でうんこふんじゃったとか。

 

誰だってある!!そんなの!!当たり前!!!

 

 

でも、そんな最悪が起こってもさ、

悲しみにひきづられず、未来に向かえる

幸せそうな人っているんだ。

 

 

なぜだろう?

 

 

例えるなら、

ぼくらって人生という

遡行しない放たれた矢の中で生きていて、

 

生きるのって、今この瞬間だけなわけで。

 

 

過去に起こった〇〇したと言う事実は、永遠に覆らないんだ。

 

良くも悪くも。

 

 

うん。

 

 

 

 

 

うんちを、ふんだ事実は変わらないんだ…。

 

 

 

 

 

その証拠にあなたの靴の裏には

うんこがべっとりついている。

 

 

 

でもね。

たった1つだけ変えられるものがある。

 

 

 

それは

認識。

 

 

 

 

つまり、

うんこふんじゃった!(事実)💩

ばっちぃ!さいあく!(認識)

うんこふんじゃった!(事実)💩

これ、ピンポイントで踏む?

逆にすごくね?ラッキーかも?

わっしょいだぜ!!(認識)

と思ってみたら、

ちょっとはマシではないだろうか?

 

 

ということ。

 

幸せな人は、

この超未来的、自己中ご都合主義解釈が

べらぼうにウマイ。

 

 

 

過去は変えられん。

ぐちぐち言ってても仕方ないんだ。

 

最悪なことはだれでも、起こること。

隣のにこにこしてるハッピーマンも、

多少の悲しいことは起こる。

 

事実と認識を、ごちゃごちゃにしない。

変えられるのは、認識。

 

他人や、過去は変えられないけど、

自分と、未来は変えられるっていうありふれた話。

 

ならば、

変えられるものは自分勝手に変えてやれ!

 

あなたは事実の世界に生きてるんじゃない。

認識の世界に生きてるんだ!

 

 

 

自分の好きなストーリーを描けるんだっ!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

「べちょ。」

 

あ、うんち踏んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「くそ!!!」

 

 

終わり。

人は選ぶたびに後悔する?

パートナー候補、ランチのメニュー、職業先。

なんでも選べる数が多くて困るものではないし、

選択肢は多いに越したことはないだろ!

 

と、思う人も多いかもしれないけど、

実際どうなんだろうね。

 

ここで

ちょっとした心理テストみたいなもんですが、

 

 

あなたはなんとなく面白いテレビ番組を見たいなぁって思っているとして、

リモコンを持ってピッピッと2、3回チャンネルを変えてたら

「おっ?ちょっと面白そうだぞ?」って番組を見つけたとしてさ。

この後、二つ選択肢があるとする。

 

A「まぁまぁ面白そうだから、観よっかな。」

B「最もおもしろい番組あるかも!一応全チャンネル見てみよう!」

 

さぁ、あなたはAとBのどっち派?

 

 

 

これに対する正しい答えは当然ない

とは言うものの、

その傾向を把握することで、

生き方のヒントを得ることはできる。

 

 

ちなみに

Aの思考になりがちな人はサティスファイサーと呼ばれてる。

現状で満足しやすい傾向の人。

 

Bの思考になりがちな人はマキシマイザーと呼ばれてる。

現状で満足せず最高のものを求める傾向の人。

 

まあ、どっち選んだ人も

サティスファイサーっていう一面もマキシマイザーっていう一面もあって、

気質は一長一短なので、

サティスファイサーもマキシマイザーも

どちらが良い悪いと言うのはないんだけど

それぞれ発揮するタイミングと言うか、場面による相性はあるんだ。

 

 

知る事で、

あなたの人生をより豊かにするヒントになったら嬉しい。

 

 

 

例えば、

パートナーがほしいっていう場合、サティスファイサーの方が【ある程度】で満足いくのだからから幸せ。でもさ、マキシマイザーの思考だと、どんな人でも欠点を見てしまって、もっと自分の理想にピッタリな人がいるんじゃないかって思ってしまいやすいよね。でも理想にぴったりな人なんてそもそもいないわけで。永遠に満足せず、幸せが遠ざかっちゃうかも。

 

逆に県大会目指すぞーとか言っている野球部員とかなら、マキシマイザーの方が貪欲に達成するために行動して、成長感あって夢が叶いやすい。逆にサティスファイサーだとちょっと頑張って満足しちゃうから残念ながら成長を感じるのは難しくて、夢は叶いにくいかも。

 

 

要は、サティスファイサーとマキシマイザーな一面、

この場面はどっちの姿でいた方が人生豊かかなーって考えることは大事かもねって話!

 

 

ちなみに

パートナー、職場とか追い求めてもきりがないものはサティスファイサー気質が相性いいね!理想ってのは虹のようなもので絶対捉えられないから、最上を求めるのはやめよ!(最高の〜みたいなのは危うき!)

 

5キロ走るとか、県大会出場とか目標がイメージしやすい達成したいと思うときはマキシマイザー気質が相性いいね!叶えやすい!(具体的な方がグッド!)

 

 

 

 

この、あなたに備わった武器の特性をうまく生かして、

日々幸せにいきたいたい!

 

 

終わり!

 

 

 

 

 

サティすファイザー

ブログを日課として、

書き始めたんだけど、

 

4日目にしてね、

早くも、伝えたい心の温度そのままに

手の届く範囲の人に思いを伝えていきたいって思ってる。

 

そしたら

まずは書かんと始まらないんだけど、

かなり完璧主義だから

あじゃない、こうじゃないって淡々と書き直しての

繰り返しになっちゃう。

 

で、言いたいことぐるぐる巡って結局言いたいことなんだっけってなっちゃう。

 

でも、ありがたいことに

こんなしどろもどろブログでも見てくれる人もいるわけで。

 

結局言いたいことがわかんない!

とか言われるんだけど、悔しいってなって頑張るってなる。

 

素直に言ってくれるのも嬉しいね。

 

おかげでまだまだダァって実感できて

もっと伝えられる文章書きたいぜってなった!

がんばらないといけないなぁって思った。

 

コツコツやったろー!!!

 

 

と、書いてたら寝落ちした話。

 

 

素っ裸のサンタ最強説

こんばんは!とがぽんです!

 

今日の話は、

 

いつでも与えられる人になりたいなら、

素っ裸のサンタ

になろーぜって話!

 

 

 

 

 

 いえーいーーーーー!!!

 

 

 

 

はい。

タイトルの詳細は

後で述べていきます。

 

 

と、その前に

最近の出来事なんですが、

 

「なんかいつのまにか周りが助けてくれるんよねぇ〜」

「困ることはあるけど、なんとかなっちゃってる。私、ラッキーだなぁ〜」

 

なんて幸せな声が友人知人からちらほら聞こえるんですよ。

 

いいねぇ〜!って思ってたんだけどさ、

 

ご都合よく助けてもらえるそんな人の共通点洗って、

よくよく品詞分解してみたら

 

意外にも、

2つのヒントが見えてきたんだよね。

 

 

今日はそれを話したいんだ。

 

まず1つ目ね。

 

そんな、色々与えてもらえるラッキーな人ってさ、

 

 

 

素っ裸なの!

心がね!!!

人, ç·, 大人, 裸, éåé¸æ, 彫å», ã¢ã¼ã, 強度

 

どういうことかっていうとね、

そんな人って、

 発する言葉、態度も特に着飾らない。取り繕わない。要は心に素直。

 

ほら、人間って弱いじゃん?

イチローでも、岩ちゃんでも、

誰でも苦手なところとか、自覚してる弱さとか卑しさとかある訳で。

それをやっぱり隠したくなるのが、人間の性。

 

 でも、彼らは裸なんだよ!

 

 

例えば、

つらかったら悲しいっていうし、

わからなかったらわからないっていうし、

嬉しかったら、ありがとうって素直に言えるの!

 

 

そんなプリキュアばりのぴゅあぴゅあハートで

頑張るもんだから

応援したくなっちゃうのかもね。

 

 

 

 

2つ目なんだけど、

 

 

愛される人ってさ、

サンタクロースなんだよ。

 

 

 

サンタクロースなんだよ!

心がね!!!

 

 

 

サンタってさ、

子供のためだーーー!とか言って、

目をルンルンに輝かせて、

寒空の中、ソリ乗って、

自分の多大なる時間と労力を割いて、

寝ているお子様にプレゼントを持っていくわけ!

 

でも、その子たちからプレゼントをあげた代わりに

何かもらえるわけじゃない?

 

 

ギブアンドギブの精神で

毎日誰かのために

幸せにしたいー!助けたいーって奔走してるんだ!

 

そんな人、リアルにいたら

かっこいいし、

そりゃ応援しちゃうさ!

 

 

 

 

要は、与えまくれ!!

惜しみなく!自分の時間と労力とかもろもろ

できるだけ近くの誰かに使い切れ!

 

 

無くなるのが怖い?

 

見返り求めたらそうさ!

 

でも

哲学者の内田樹社会学の観点から言ってたんだけども、

 「サッカーは、ボールを回す人にボールが集まる。」んだって。

 

自分だけでゴールまでボール持ってって

目立っちゃおーなんて、

自分のことばっかり考えてる人は美しくない。

 

こいつにボールをパスしたら、

思いを無下にせず、

絶対味方を助けよーって頑張ってくれるし、

なんか良いこと起こるかも?

って思うからみんなはそいつにボール渡すんだ。 

 

絶妙なタイミングで

仲間に奇跡のミラクルパスしてくれるかも?ってね。

 

他の人のためになんとかしよ!って思いが、

信頼につながって、なんかしてあげたいなぁ〜って思うの。 

 

 

見返りなんか求めず、

他の人のためだけって考えて

思いっきりなんかしてみ?

 

必ず、その積み重なった信頼やらがあなたを助けてくれる。

 

まだまだ寒い時期だけど、 

隣のやつ寒そーだなぁってあなたが思って、

あなたが自分の服をそいつらに貸しまくって

自分の服が無くなったとするじゃん?

 

確かにその時は、

なんもなくなるさ。

 

 

だけど、

そんなあなたが別の時に、寒いって凍えたらさ、

そんなSOSに反応して、あなたなら、と、

周りのみんなが勝手に服やら毛布やらカイロやらくれるさ。

もしかしたら、人の温もりで暖めてくれるかもね。

 

 

 

 

 まとめるね。

 

素直でオープンな心で人と接して、

誰かのために最大限できることを模索し続ける。

 

 

 

 

そんな心があったかい人達であふれたら

しあわせだなぁ〜なんて思いながら、

今日もブログを書いています。